文字数: 4143 | 予想読書時間: 9 分 | 閲覧数: 151
東京の賃料が史上最高を更新しても、その果実は自動的には配分されない。実際に手にしたのは、能動的に賃上げを実施した56.7%の家主であり、残りの家主は数字の上昇を眺めているだけだ。
先週公表された東京23区の賃貸マンション平均賃料では、単身向けが11万4,000円台に達し、25カ月連続で史上最高を更新。カップル向けの2人入居型も13カ月連続で上昇した。一見すると、すべての家主にとって朗報に見える数字だ。
しかし同じ週に発表された別の調査は、全く異なる脚注を付けた。帝国不動産が一都三県の一棟賃貸オーナー1,000名を対象に行った調査によれば、過去2年で実際に賃料を引き上げたのは56.7%にとどまる。言い換えれば、家主の約4割強は、この歴史的な相場局面で収入を1円も増やしていない。市場が上がっても、あなたのキャッシュフローが上がるとは限らない。

記録更新の賃料の陰で、閉店に追い込まれる居酒屋
TBSの映像は、この値上げ局面の両端を具体的に映し出している。20代カップルが同棲のために物件を探したが、当初は管理費込み12万円の予算で探しても条件に合う部屋が見つからず、最終的に予算を2万円引き上げざるを得なかった。
仲介会社AINS HOMEの土肥和大社長は、より直感的な比較を示す。かつては10万円前後で借りられた1LDKが、いまは11万〜12万円レンジでようやく見つけやすい水準になっている。これは気のせいではなく、新規供給の価格設定に乗って上昇した建築コストが、エンドの賃料にまで波及している結果だ。
波及は住宅だけで止まらない。600種超の酒を抱える居酒屋「ちぇけ」は同じビルの1階と3階で営業しており、1階は立ち飲みの廉価帯。契約更新時に、家主から1階の賃料を5万円超引き上げる通知が届いた。
食材・光熱費の上昇も重なり、店主の豊田千木良氏は7月31日に1階を閉め、3階のみ存続とした。商業テナントの支払い能力が、この賃上げ局面で最初に切れる弦になりつつある——商住混合の一棟物件を運用する投資家は、特にこの点を注視すべきだ。
56.7%という数字に、家主間の本当の分水嶺がある
帝国不動産の本調査の価値は、「賃料は上がっている」という自明の結論ではなく、家主を行動で切り分けた点にある。全体1,000名のうち、過去2年で賃上げを実施したのは56.7%。一方、東京都心5区(千代田・中央・港・渋谷・新宿)では、その比率が73.2%に跳ね上がる。
より重要なのは幅だ。都心5区では、10%超の大幅賃上げを実施した家主が23.2%と、全エリア中で最も高い。同時に、これら2つのエリアでは「すべて管理会社に任せている」と回答した比率が最低——都心5区で3.6%、23区その他で4.5%。
収益の結果は、ほぼ機械的に行動に追随する。賃上げを行った563の有効サンプルでは、過去2年で収益が「改善」と答えたのが32.1%、「悪化」は18.1%。一方、「不明・全て管理会社任せ」の40の有効サンプルでは、「改善」は7.5%にとどまり、「悪化」は25.0%に達した。
Urbalytics 洞察:内部賃貸データは、この分水嶺を価格面から裏付ける。2026年8月6日時点で、渋谷駅周辺の賃貸マンションの単位賃料の中央値は1㎡あたり5,903円(n=422)、新宿5,504円(n=116)、池袋4,519円(n=500)、横浜3,973円(n=368)、大宮は2,857円(n=500)。単価の勾配は賃上げ率の順位とほぼ完全に重なる——単価が高い立地ほど、家主のプライシング・パワーは強い。
2つのデータ、同一の序列
主要駅の単位賃料(中央値) 円/㎡/月5,903渋谷5,504新宿4,519池袋3,973横浜2,857大宮(埼玉)出典:Urbalytics rent_stats(MANSION・2026年8月6日取得) 過去2年で賃料を上げた家主の比率(%)全体 56.7%73.2%都心5区62.2%東京都多摩54.7%千葉県54.5%23区その他47.5%神奈川県44.6%埼玉県 出典:帝国不動産「一棟賃貸オーナーの賃貸経営実態に関する調査」(2026年7月・一都三県 n=1,000)
立地がプライシング・パワーの上限を決める
2つのデータを重ね合わせると、エリア分化のロジックが明瞭になる。賃上げ率は都心5区の73.2%から、東京都多摩62.2%、千葉県54.7%、23区(都心5区除く)54.5%、神奈川県47.5%と低下し、最も低い埼玉県は44.6%にとどまる。
Urbalyticsの単位賃料中央値を照合すると、渋谷は大宮の2.07倍。この倍率は単なる「高い」という意味に留まらない。都心5区では家主が10%の賃上げを提示しても、同等の通勤条件を満たす物件に乗り換える代替コストがなお高い。一方、埼玉では2駅外へ移動するだけで、大幅に安い代替物件を見つけられる。
これが、埼玉や神奈川の賃上げ率が5割を下回る理由だ。プライシング・パワーは交渉術の産物ではなく、立地の希少性という関数。越境投資家にとって、この結論は「東京の賃料が上がっている」よりも実務的だ。プレミアムを支払うに値するのは、賃上げをしても代替品の罠に落ちにくい通勤圏だ。

賃上げの前に立ちはだかるのは、じつは賃貸借契約
では、なぜ4割強の家主は相場上昇を認識しつつも動かなかったのか。主因は市場ではなく契約にある。35.8%の家主が「普通借家契約のため、更新時に値上げを切り出しにくい」を選択し、30.0%が「退去リスクが怖く踏み切れない」と答えた。
日本の普通借家契約は制度上、借主に大きく傾いている。借主が同意しない限り、更新時の賃上げ主張は通りにくく、調停や訴訟は時間・費用が値上げ幅を上回りがち。これに対し、定期借家契約は満了時に自動更新されず、家主は足元の相場で再募集できる。
調査が示す認知ギャップも示唆的だ。定期借家の認知率は76.4%に達する一方、導入意向は58.7%にとどまる。この差はある懸念に起因する——39.0%の家主が定期借家で募集すると賃料が「下がる」と考え、逆に「上げやすい」とみるのは8.8%のみ。
しかし、データはこの懸念を全面的には支持しない。
第一に、帝国不動産の運用実績では、再契約型の定期借家で想定賃料の達成率は103.1%。すなわち、適切なコンプライアンス設計のもとでは、定期借家が必ずしもディスカウント要因とはならない。
第二に、認知度と導入意向は強く相関する——「非常によく理解している」層の導入意向は78.3%で、「理解していない」層は9.2%にとどまる。抵抗感の主因は制度の経済性ではなく、情報不足だと示唆する。

リスク提示:この手法をそのまま適用しようとする海外投資家は、まず2点を試算すべき。定期借家のコンプライアンス要件は普通借家より格段に高い。書面交付や公正証書化などの手続瑕疵は普通借家と認定され得て、労多くして実を失う。また、賃上げに伴う空室リスクはキャッシュフローモデルに織り込む必要がある。特に埼玉・神奈川のように代替供給が潤沢なエリアでは、賃上げの失敗が2〜3カ月分の賃料を吹き飛ばしかねない。
今後12カ月:賃上げは階層化し、全面高にはなりにくい
ドライバーでみると、今回の賃料上昇は高止まりする建築コストによる新規供給の制約に、都心の単身・2人世帯の増加が重なった構図だ。これら2変数は向こう1年で反転する兆しが見えず、賃料指数は高確率で上昇を続ける。
ただし、指数が上がっても、すべての保有者が恩恵を受けるわけではない。調査では、今後3年で継続的な修繕・改修(26.1%)、建替え検討(8.9%)、追加取得(4.6%)を予定する家主が約4割存在する——この層は、受け身の保有者との差をさらに広げる。
投資判断への示唆は明快だ。東京で一棟賃貸を買うにあたり、「賃料が上がっている」こと自体はもはや購入理由にならない。上昇分を実キャッシュフローに転換できるかは、立地の代替弾力性、賃貸借契約の構造、運営の能動性という3点に依存する。
Urbalyticsプラットフォームのエリア賃料相場と一棟表面利回り分布ツールは、発注前にこの3点を可視化するためのものだ——新宿駅周辺の一棟物件の表面利回り中央値は現在4.27%(n=31)。この水準では、将来の収益改善余地は価格上昇の待ちではなく、賃料面の能動的マネジメントにほぼ依存する。
#東京賃料 #東京23区 #一棟賃貸 #定期借家契約 #普通借家契約 #都心5区 #日本不動産投資 #賃料上昇 #表面利回り #渋谷 #新宿 #埼玉 #神奈川 #越境投資 #Urbalytics
参考情報
TBS NEWS DIG Powered by JNN, 2026,「東京23区で家賃が過去最高値を更新 住まい探しの苦悩に居酒屋は家賃値上げで苦渋の決断も…」, https://news.yahoo.co.jp/articles/b4f2234a07d2ec3fc8f82a72bb0279474fd4cbbb
健美家(調査主体:帝国不動産株式会社), 2026,「賃料を引き上げたオーナーは56.7%、都心5区では7割超~一都三県の一棟賃貸オーナー1,000人調査:賃貸経営の実態」, https://www.kenbiya.com/ar/ns/research/chintai_market/10400.html
Urbalytics, 2026, 賃料統計(rent_stats・MANSION/渋谷・新宿・池袋・横浜・大宮/2026年8月6日取得), https://www.urbalytics.jp/
Urbalytics, 2026, 一棟表面利回り統計(building_cap_rate_stats・新宿/2026年8月6日取得), https://www.urbalytics.jp/
東洋経済オンライン, 2026,「四半世紀で変わり果てた『億ション』の姿…1億円で買えるのは『港区・102㎡』→『23区外・66㎡』に」, https://toyokeizai.net/articles/-/952968?display=b
著作権について:本記事は著者によるオリジナルコンテンツです。無断での転載・複製・引用はご遠慮ください。ご利用希望の方は、著者または当サイトまでご連絡ください。




